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【アラベスク】  第2章 真紅の若葉



第2節 丘の上の貴公子 [2]




 美鶴は岐阜県で生まれ、中学卒業までを岐阜県で過ごした。
 唐渓(からたに)への進学を期に住まいを愛知県へ移して一年。学校と家と駅舎以外に寄る場所もない。もちろん繁華街へ出歩くこともない。ゆえに、地理には(うと)い。
 今自分が案内された霞流の家が、愛知県のどの辺りにあるのか、皆目見当もつかない。

 あの人、あの駅舎で会った人だな。

 玄関で霞流を出迎えた老人。
 合鍵を渡され、平日の管理を任された後は一度も会ったことはなかった。だが、美鶴を見て目を大きくしたところを見ると、覚えていたのだろう。
 祖父っていうのは、あの駅舎を大事にしている人のことだよな。
 車の後部座席。母は隣の美鶴を飛び越して、霞流へ大雨のような質問を浴びせかけた。

「まぁ、製糸業?」
「製糸というか織物というか…… まぁ そんなようなものです」
「あら、じゃあひょっとして私たち、一宮に向かってるの?」
 愛知県で繊維関係と言えば、尾張(おわり)一宮(いちのみや)が有名だ。だが……
「いえ、一宮ではありません。私の家は、一宮とは関係ありません」
「あら、じゃあどちら?」
「………知多(ちた)です。  ……… あ、ですが、私の自宅は知多ではありません。もっと近くです。もうすぐ着きますよ」
 知多と聞かされて、美鶴は大雑把(おおざっぱ)に知多半島を思い浮かべた。だが、知多市という市名もある。愛知県の人間が『知多』と言った時、普通どちらを指しているのか、県外出身の美鶴にはわからない。
「突然お邪魔してしまって、すみませんねぇ」
 大して申し訳なさそうにも聞こえない母の言葉に、霞流は愛想とは思わせない見事な笑みを返す。
「いえ… 祖父と私と、あと数人の家ですから」
「あら? ご両親は?」
「両親とは別で暮らしています」
「知多にお住まい?」
「まぁ………」
「あなたはずっとこちらで育ったの?」
「えっと…… 生まれは知多ですが……」
 言葉を濁す意味がわからなかった。
 すでに成人しているように見える。だから、両親と離れて暮らしているのはさほど珍しいことでもない。だが、逆に隠居した祖父と同居しているというのはおかしな話だ。

 金持ちには金持ちの事情ってのがあるんだろうな。

「大迫さんもこちらのご出身で?」
「いえねぇ、私はもともと埼玉で生まれたんですけどねぇ………」
 機関銃のような質問の間を縫って問いかけてきた霞流に、詩織は手をひらひらさせながら身の上を語りだす。
「スナック勤めは十六の時からなもんで、もうベテランみたいなもんです」
 ケラケラと下品な笑い声をあげるたびに、美鶴は母の頭を押し付けて、運転席か助手席の下へ捻じ込んでやりたい気分に陥った。
 十六歳でスナックに勤めるなよっ! ってか、今どきスナックなんて言葉、使うかっ?
「バッカじゃないっ!」
「誰がよ?」
 思わず吐き捨てた言葉に返事がかえってきて、美鶴は飛び上がった。
「なにビックリしてんの? あぁ〜 いいお湯だった」
 頭をバスタオルで拭きながら出てきた詩織は、美鶴の言葉の意味など大して考えもせず、ドッカリとベッドに腰を下ろす。そうしてそのまま仰向けになった。
 化粧をすっかり落した詩織は、ただの中年女性に成り下がっていた。
「あぁ、ママに連絡しとかなきゃ。心配してるかもしれないしなぁ」
 しかし、いかにホテルのような部屋であっても、電話までは備えられていない。
「あー、こういう時に携帯がないのって不便よねぇ」
 グタグタと駄弁(だべ)る母に一瞥を投げた途端、腹が低く鳴った。
「なに? アンタお腹空いてんの?」
 詩織が面白そうに起き上がる。
 そう言えば、家に帰っても何も食べずに寝ちゃったんだ。
「アタシ、なんにも持ってないよ」
「別に聞いてないって」
「ミニバーに何か入ってるんじゃない?」
「ミニバーなんてないってば」
「ルームサービスでも頼めば?」
「あのねぇ、ここはホテルじゃないんだからねっ!」
「あっ そっか」
 ペロッと舌を出す。
 相手にしてられんっ!
 美鶴はムスッと立ち上がると、着替えを持って風呂場へ向かった。扉の向こうにはこれまた小奇麗(こぎれい)な洗面ルームが広がっており、風呂場もゆったりとしている。
 服を脱ぎ、用意されたタオルを持って風呂へ向かう頃には、すでに隣室からの小さなイビキ。
 暢気(のんき)なもんだよ
 ガックリと肩を落として風呂場に入り、そこでようやく気がついた。
 私、下着付けてないじゃんっ!
 寝るときに外して、そのままだったのだ。


 「おは……」
 口を開きかけ、そのまま視線をそらす山脇(やまわき)と、目を見開いて口笛を吹く(さとし)


 あの時…… 山脇と聡が二人して美鶴の部屋に泊まり込んだ翌日の朝。Tシャツの下の何がどれほど透けていたのか、美鶴にはわからない。……わかりたくもない。
 だがあの日以降、なぜだかTシャツ一枚で寝るのに抵抗を感じる。夏も本番になれば耐え切れないだろうが、また上下のジャージで寝るようになった。
 特に存在を主張するほどの胸でもないので、ジャージの上からでは霞流にはバレなかったかもしれない。
 だが用意されたブラウスでは、そういうワケにもいかない。
 しかし、またあの薄汚れたジャージを着て朝食へ(おもむ)くワケにもいくまい。
「まいったなぁ」
 美鶴の疲れた呟きは、湯気で霞む浴室に、エコーを伴って小さく響いた。







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